脱線事故報道の足場

JR福知山線脱線事故は死者80人を超え、なお車内に10人以上の人影が残されていることが判明した。

「人災」とか「安全神話の崩壊」とか「安全軽視の経営体質」とか。
何かを言い得ているようで、そうでもない言葉がちらほらと。
統計的な数字と国鉄>JRの歴史を持ち出して安全軽視を説くのも同じこと。

メディアが、特にコラムや社説子が何かを語る場合に頼りがちな手法だ。
気になるのは、この語り口だと事実の助けははまったくといってよいほど必要なくなることだ。

事故原因としてカーブと進入速度と非常ブレーキの相関関係がどういうものか、置き石のような粉砕痕は何を意味するのか、側面衝突に関する強度の問題、これを克服するためのコストはユーザ側が負担に耐えうるものか、ほぼ2日間にわたって救出活動が続けられたことをふまえ、列車内での生存空間の確保についてどうみるのかetc.

今回のケースで残された疑問はさっぱり解明されていないにも関わらず、前記の論理では容易に事故を生んだ理由"らしきもの"に到達してしまう。
統計やデータ、資料は様々あるだろうが、その全てに言えることは今回の事例が反映されていないことだ。ある種の結論らしきものは導きだせるだろうが、その結論そのものはデータ把握の時点のもので、そこに含まれる分析がなぜ生かされなかったのかの部分を今回のケースを踏まえて詰めていかなければ、次につながる展開とならない。

事故のリスクを潰すために必要なことは安易な犯人探しじゃなく徹底した検証だ。
今じゃなきゃ救えない人を救い、今でなければ把握できない状況をきっちり把握することだ。