PJのあり方について考えてみる

諸尾 圭氏のパブリックジャーナリスト論について。

パブリック・ジャーナリストの可能性
パブリック・ジャーナリストに対する批判も多いですが、あえて可能性を示したと思います。それには、まず良いジャーナリスト、良い記事は何かという事から始めなくてはなりません。 ジャーナリストは、「好奇心を持つ、問題意識を持つ、素朴な疑問を大事にする、批判精神・反骨精神を忘れない」などと言われますが、それは「問題提起」できる視点を持つということではないでしょうか。次は「綿密な取材・データ収集です」。次に、「問題点の整理・価値判断」です。そして、最後が「表現力」となるように考えます。

その通りだと思います。

 パブリック・ジャーナリストは自分の人生において、データ収集しています。JRの事故を例に取ると他の鉄道会社などで、安全管理を行う人が1番データをもっています。一流のジャーナリストが取材するより多くのデータを持っている人はたくさんいます。

 データを持った人が問題意識を持ったり、表現力を付けたする、いわゆるジャーナリストとしてのスキルを得ることと、ジャーナリストがデータを蓄積することを比較すれば、問題意識や表現力を身につける方が、近いような気がします。パブリック・ジャーナリストの数が増えれば当然記事の質も良い物ができてきます。良い記事は綿密な取材に裏付けられます。パブリック・ジャーナリストはある意味、自分の周辺に置いては綿密な取材を終え問題点を整理できる人です。

必要十分かどうかはともかく、データを持っているという前提で話を進めます。そういう人がデータと表現のスキルと問題意識を兼ね備えることでPJとして活動することができるのであれば、前述の通りまったく同感です。

気になるのは「数が増えれば質がよくなる」「PJは問題点を整理できる人」という部分。
量は必ずしも質に転化する訳ではありません。
メディアスクラムという現象もあります。
また、氏はデータ、スキル、問題意識などを掲げながら、ここではPJがそのスキルを兼ね備えた人材かどうかについて無批判で受け入れているように思えます。
採用の時点でクリアしているという評価なのでしょうか?

 データを持ったひとが、ジャーナリスト的視点と表現力を持つことに期待しているのがパブリック・ジャーナリストです。自己に関することは、ジャーナリズムとしての客観性を欠くという批判もあるでしょうが、ジャーナリストがジャーナリズムを語り、メディアがメディア論をたたかわせることは現在行われています。「自己に関すること」と、「ジャーナリズム」は別問題です。

メディアにおいて、ジャーナリズム論、メディア論は総論として語られます。
それは自己に対してジャーナリズムが発揮されていることを意味しません。
実際、現実の問題、たとえば朝日-NHKの問題や読売記者の暴言など各論的な部分については、ほとんど各社対応というレベルにとどまり、そこで有効にジャーナリズム論がたたかわれているわけではありません。

その点こそが既存メディアの抱える問題だとの指摘もあります。
「自己に対してジャーナリズムを発揮できるか」という問題はそれだけ根深いということです。
氏の語るPJはあらかじめデータをもつ人材ということのようですが、それだけ当事者性の高い人が必ずしも自己に対してクリティカルに記事化できるのか。むしろ逆の効果を懸念すべきところから入るのがそもそもジャーナリズムに関わるものとしての態度ではないかという気はします。内部告発とかリークとか、当事者しか知り得ない情報を流す効果はもちろんありますが、氏のいうPJの定義は情報提供者の域ではないでしょうし、ぼくもそのレベルならPJを名乗る必要はないと思います。

 既存の新聞やテレビ、評価の確立したフリージャーナリストがパブリック・ジャーナリストに否定的なのは、自分たちの真価か問われる事への不安感だと思います。

そうだと思います。
ただ、同時にだからといってPJの評価を甘くする、ということも別問題です。
なぜネットの他の表現者と差別化し、PJとしてジャーナリストを名乗るのか。
その「ジャーナリスト」の部分にこめられたものに対して、関心が寄せられるのは当然と思います。

 パブリック・ジャーナリストでは出来ないことをしないかぎり、プロフェッショナルなジャーナリストと評価されなくなるのが不安なのでしょう。つまり、肩書を使って行けるところへ行ったら、馴れ合いなしに取材することが求められる時代がくることが不安なのでしょう。

 しかし、そういう世界を私は見たい。だから、パブリック・ジャーナリストとして記事を書きます。そして、可能性を確認したい。【了】

結局、PJに好意的な人はジャーナリズムの間口を広げるという利点、問題を指摘する向きからは水準が下がるというところの懸念がある。そういう状況を踏まえて諸尾氏の意見はPJのポテンシャルへの理解を助けるものだと思います。
ただぼくの解釈ではパブリックジャーナリズムとは「場」のようなもので、そこにいる個々のPJの姿勢や意見は異なり、理念すらも相互に共有されているわけではないという理解です。これは決してネガティブな意味ではなく、理念や使命などという「ビジネス的な一体感」に縛られない知的自由度がある、という意味です。
問題は「場」としての部分と、個々のPJの背負う部分が渾然となることについて、整理されないまま語られることです。ライブドアのPJに関する管理というか手入れというか、場に対する関与の仕方が今ひとつ分かりづらく、現状のように個々のPJがその場その場で対応したりすることが続けば、ますます混乱を広げるでしょう。

回答

報道と事件の距離で告発的な情報を記事にするPJの姿勢の話を書いたが、それについて触れる記事が出た。

客観報道は努力目標
 もっとも多い批判は、この記事が中立性もしくは客観性を欠いている、というものだ。PJニュースは、ジャーナリズムの中立性や客観性を絶対視していない。相反する事柄について事実を追及する際に、ジャーナリストが中立的な態度を維持することは妥当だろうか。もしくは、その中立的態度がジャーナリストの無責任に変質しないのだろうか。

 また、取材編集過程でジャーナリストの主観が入り込むことは自明である。いわゆる客観報道とは努力目標であって、絶対価値ではない。そもそも、日本国内のマスメディアが持つ中立性や客観性という概念は、ジャーナリズムの理念から生じたものではなかった。逆に、明治後期の政府の言論弾圧に屈した形で、マスメディアの生き残り策として編み出された側面が強かった。欧米の速報重視から生まれた客観主義とは別ものである。

ジャーナリズムで、中立と独立は異なる概念
 もう一つの批判が、ジャーナリストの独立性についてである。これは十分議論しなければならない。「中立」と「独立」は異なる。連載記事について、PJの渡辺直子さんにジャーナリストとしての独立性は無い。ゆえに、原稿を掲載すべきではない、という声がある。確かに、ジャーナリストは中立的な立場である必要は無いが、独立した立場で取材報道しなければならない。 しかし、この事件の全体像を見渡すと、ジャーナリストの独立性よりも大切な、ジャーナリズムの価値があるのではないか。もし、渡辺さんの父親、省三さんの死因をめぐり、警察のずさんな捜査によって、他殺が自殺だとだと断定されたのであれば、市民が安全で安心して生活できる社会など望めない。これは公共性のある重要な問題だ。誰かが報道しなければならない。

スタンスが明確になったので、すっきりしました。

PS3

発表されました。

コントローラもガラッと印象を変えている 株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントは次世代機「プレイステーション 3」を発表した。発売は2006年春を予定。米国で18日から開催されるE3 2005に先駆けて行なわれたSony Computer Entertainment Americaのカンファレンスにおいて発表されたもので、E3ではプロトタイプが公開されるという。

筐体は現モデルの方が好みだけれど、次世代機でも購入候補としては最右翼。
PS2が壊れたばかりなので、下位互換なのはありがたいです。