匿名、実名論議から派生するもの

取材者の暴走について、実名もしくはハンドルネームが抑止力となるという議論がある。
抑止力の作用の仕方についてちょっと面白い話があった。


実名の延長としてハンドルネームを見る意見について、法的裏付けを暴走の抑止力とする考え方だとし、松岡氏は世間体こそ抑止力につながるのではないかと異論を述べる。

 つまり「世間体を気にする」とは相手を思いやることであり、「こんなことを書いたら本人は傷つくかな?」とイメージすることだ。また人のために何かをし、尊敬されることでもある。人間が社会的な生き物である限り、自分の姿の映し絵である「世間様」はどこまでもついてくる。

ハンドルネームによって、一連の発言に人格的な統一ができることを考えれば、世間体は行動や言葉に相応の重みを与える。
「相応」、とことわるのは世間体は主観の産物であって、本人の意識の持ちようであるためだ。
そこを抜けた(と思い込む)人にとって、世間体も実名も抑止力たりえない。
場合によっては逆説的に、自分の言葉を受け入れない世間に対して攻撃性を増す効果すらある。


匿名実名論からはそれるが、職業倫理的な意識の持ちようも、同じ縛りと矛盾を抱えるものだ。
件の読売記者の場合は、まさにその部分でカン違いがあった。不遜で横柄なつるし上げが、じつは未明に社長を会見に引きずり出しその表情を映し出すという、ジャーナリスト的「使命」に合致した成果につながることが、彼の行動をどこかで後押ししている。
結果をもって正当化するということが、自らの態度の異常性に気づかない、あるいは、社会倫理つまり世間体を凌駕してしまうことにつながる危うさにつながる。
果たして社名や署名で、このあたりが的確にクリアできるだろうか。
そういう意味では、内省的な抑止力の限界についても、もう少し考えてみるのも面白い気がするのである。