調和と理性

コミュニティで、ある種の合意が形成される。
作業は進む。将来に繋がることが期待できるような達成感も共有される。
成果の妥当性が検証されることは必ずしも要件とされない。
状況次第では、むしろ不正義に近い温度で忌避される。

合議を前提とした場は、合議自体が目的化しやすい。
そういう風土に馴染まないものは、行政的な還元プロセスを受け入れられるか否かの部分で、既に合議の埒外にある。

合議は制度的にあるレベルの排除を前提とする。よって運営の面として合議が掲げるのは排除される参加者にエクスキューズを用意すること、合意の外側の意思が合意の大前提を覆さないレベルにおいて行政的フィールドに留まり得る余地の提供だ。
しかし反対者は必ずしも制度自体を否定する目的で反対する訳ではない。
というより反対の枠組みを意思と異なる形で箍にはめられること、それ自体を容認できないという場合は少なくない。

合議は真理を担保しない。
消去法的に、異論を排除する形で「確からしさ』へと近づけるに過ぎない。
その曖昧さを補完するだけの理性が働かない環境で、合議が有効に機能することを期待するのは、大変ナイーブな考え方だ。
が、現実には、そういうナイーブな傲慢さが多くの場面で幅を利かせている。
理性は、致命的な場面で民主主義的なプロセスと没交渉になりがちで、その理性の不在を量る機能を備えないことにより、なにがしかの安息を担保するのが、コミュニティである。