南米文学が熱くなる

リョサ氏にノーベル文学賞
『緑の家』に手を出すべきか、今いち逡巡していたところ。
河出の世界文学全集で『楽園への道』を読み上げ、その分量に往生しつつも南米文学の魅力を知った。
今、手元には夏の重版に拾われたルルフォ『ペドロ・パラモ』がある。
私的南米文学熱に、世界がシンクロしていくような感覚。

翻訳文学周辺の静かな活気は、歓迎すべきところなのだろう。
それにしても、長期戦で取り組もうと意を決して初刊を購入した光文社・高遠弘美訳『失われた時を求めて』。何にも手をつけないうちに、岩波文庫から吉川一義訳の刊行が始まる。この大作で…読者泣かせというべきか、素直に喜ぶべきか。

ちょっと面白い指摘が。

ライトノベルよ、どこへいく―一九八〇年代からゼロ年代まで

ライトノベルよ、どこへいく―一九八〇年代からゼロ年代まで

p.141- 筆者「野村(喜和夫)の発言で興味深いのは、『文学の詩的機能』の基盤が視聴覚文化(テレビ、映画、マンガ、ゲームなど)によって崩れたことで、舞城や佐藤の作品は既存の文学のように『必ずしも美学的なレベルでも語れない』としている点である。」
野村「言い換えれば、脱『詩学』的な表現と内容の競合が芽生えつつあるのかもしれず、しばらくそのあたりを注視していきたい」

p.145- 「文学的リテラシーの消失」
筒井「揺り返しがあると思いますね」