想像力の欠如

被害者と加害者。
国内と国外。
身内と他人。

反日問題やJR脱線事故でのバッシングなど、安易な境界の設定と、限定的な範囲で有効な論理がメディアを覆う。

かつて、朝日だったか、新聞のコラムで元Jリーガーの井原が戦略的なファウルについて肯定的な意見を述べたところ、子どもにルール違反を勧めるのはおかしいといった抗議が寄せられたということがあった。が、現実として意図的なファウルはある。バスケでもタイトなスコアであれば時計を止めるためにファイルの応酬、というシーンはよく見られる。
原則として許されない。でも違反にまさる目的があるのならば、目をつぶろうということ。

逆に、原則的には問題ないのだけれど、いろんな事情があるなかでそれをしては(たとえば社会通念上とか周囲への配慮とか)まずいというケースもある。
JR社員のボウリング大会や宴会、小泉首相靖国参拝に法的問題はない。
ただ、そこに心情的に許せないという人もいる、ということである。
そんな連中のことなんて関係ないよ、と言い切れば問題はなかったことになる。

ルールと例外の境界をどう見極めるか。
自分じゃない視点を、どれだけ認め、どれだけ斟酌できるか。
報道に、その狭間に立つという自覚があるだろうか。
少なくとも、JRバッシングや会見での報道陣の姿に、その姿勢は見られない。