報道と事件の距離

「パブリック・ジャーナリズム」はジャーナリズムか。

通常、父が不審死を遂げたことについて、警察は自殺として処理しているが、警察の捜査に誤りがあるのではないかと訴える遺族を見たマスメディアは、何らかの形で記事化したり、テレビのワイドショーなどで取り上げてくれるはずである。そう思って、私はマスメディアに訴えかけるため奔走した時期がある。
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 しかし、この事件に関しては、私の訴えに、一旦、耳を傾けてくださるテレビ局関係者やライターの方々はこれまで多々存在したものの報道が実現されることはなかった。 だとすると、誰が、この事件を報道すればいいのか。結局、私しかいないのではないかというのが、この度の私のパブリック・ジャーナリスト宣言である。
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 私は、今日から、阪神球団関係者を被告訴人として、彼らを誣告罪で刑事告訴した告訴人である。この案件は近い将来、神戸地検により立件されるであろう。そうなれば、私がジャーナリズムの観点から、刑事事件の全容をパブリック・ジャーナリストの立場でリポートするつもりである。

たとえば長崎の女児殺害事件のケースなど、ジャーナリストが事件の当事者となることはあるが、当事者が当該事件の報道のためにジャーナリストを名乗り活動するケースは、記憶がない。ご本人の事情についてはお気の毒と思う。ここでは一般論としてメディアと事件の距離を考えたい。

このようなケースは、たとえば脱線事故でたまたま乗り合わせた記者やレポーターが現場の様子をルポとして報じたなどといった場合とは異なる。
PJ氏の場合は、本人自身が事件の利害に関わる一方の当事者であるということがある。
おそらく、既存メディアであれば、報道に関わることはできない。もし担当職場にいたとしても、当該事件の取材からは外されるのが筋だろう。(すべてにおいての話ではない。朝日が誤りを認めない、NHKが政治介入を認めないなど、全社的利益を守るために行う部分などはある)

もとよりPJ氏の場合は既存メディアで報道されないがためにという動機でPJ宣言を行っている。このアピール行動とも取れる部分を、ジャーナリズムとして受け入れるのかどうか。こういう活動をしてはいけないという訳ではない。市民運動などがやっていることと何ら変わらない。ただ、それとジャーナリズムをどう区別するのか。あるいは線引きをしないのか。
ライブドア「パブリック・ジャーナリストについて」で説明される項目はほとんどが権利関係に関するもので、PJの姿勢などはほとんど明確ではない。そのあたりの基準をどうするかがパブリック・ジャーナリズムのあり方、読者の受け止め方に関わってくる。

TBS公式HPの盗用さらに4本、コラム全面削除

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050511-00000203-yom-soci
外部ライターというところが、チェックの穴だったかどうか。
依頼に限らず、上部からのコラムなんかは査読を通ることが少ないんじゃないか。
新聞の盗用の場合もそのあたりが多い。

リサイクル費不払い、スーパー「ライフ」が制度に抵抗

 小売業者は、店内で加工した生鮮食品のトレーやレジ袋を回収し、リサイクルする際の費用として、日本容器包装リサイクル協会に委託料を支払うことになっている。不払いの場合は、罰金や企業名の公表などの処分が科される。 ライフ社では、2005年度の負担額が約2億円に上る見込みだ。「環境保護のためのコストを負担する必要は認識しているが、分担方法の議論が尽くされていない」としている。費用は容器や包装の製造業者と分担するが、トレーの場合は小売業者の負担割合は99%以上となっている。

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「(遅れを取り戻す)回復運転ができる運転士が優秀」ともいい、「回復運転は、運転の基本を示した正式な文書には載っていないが、先輩の運転士から口頭で教わった」と明かしたという。