手続きとしての取材、報道

取材プロセスの「可視化」ということで一度書いたが、手続きとしてフェアじゃない形での記録、録音は盗聴の域を出ない。これを報道の価値などメディア側の都合で揺るがせにすることは、最終的に報道の手足を縛ることにつながる。

朝日新聞NHKとの問題をめぐるやりとりのなかで、取材対象が拒否したにも関わらず、実はテープに録音していたのではないかという憶測がある。事実関係は明らかになっておらず、いま言えることは現段階では朝日新聞はそれを公開していないということだけだ。
朝日の取材テープに関する扱いに触れるには、まず伏線として医大補助金流用での録音MD提供事件を踏まえておく必要がある。
(参考:朝日新聞記者が取材源を漏らす)
この件で朝日新聞は取材対象の許可なく録音することを内部的に禁じている。NHKが公開質問状で投げかけたのはこの点を意識してのことだ。

録音テープにしろ、録画にしろ、証拠として扱われることのリスクの本質をまずきちんと踏まえておいた方がいい。裁判で取材テープを証拠採用されることにメディアが過敏になるのはなぜか。
取材の足かせになるためである。
法的に足を縛るコメントをなぜメディアの前でしなくてはならないのか。当事者としては当然そう考える。結果としてメディアは取材に支障をきたす。メディア側の事情を斟酌して拡大解釈すれば、これは治安に基づくメディアへの牽制へとつながる可能性を持つ、ということにもなる。
ただここで押さえておくべきなのは、当面の問題はメディアのデメリットだけであって、被疑者にとって取材記録がどういう位置付けになるかというのは不問にされていることだ。その意味では議論の軸足は取材活動の足場にとどまる。
(参考:日本民間放送連盟-録画ビデオテープ証拠採用についての報道委員会見解)

ここで司法、公権力に対して一線を引く以上、というより、本気で公権力の行使に歯止めをかけることを意識するなら、取材プロセスについても違法性が阻却されるなどと自分に都合のよい主張を展開すべきではない。
もっとも、どうしてもという事情はあるだろう。
潜入取材や調査報道など、蓄積型の取材を試みるケースでは手段を選べないことは理解できる。それでも、もし自らの違法性を上回る法益が、その取材および報道にあるとしても、報道と同時に自らの違法行為あるいはモラルに反する行為については相応の代償を払う覚悟をしておくべきだ、と僕は考える。
本気で公権力と緊張関係を持つ意識があるとすれば。
おそらく司法でいえば不起訴、起訴猶予などの状況はあるかもしれない。
しかし、そこは報道の特権のような形で処理をするのではなく、一般と変わらない司法のエリアで判断を仰ぐべきではないだろうか。