司法が生み出す司法のねじれ

小泉首相靖国参拝違憲…大阪高裁が高裁初判断

参拝の違憲合憲の議論はとりあえず置く。

 大谷正治裁判長は「参拝は内閣総理大臣としての職務行為で、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と述べ、違憲と判断した。小泉首相靖国参拝訴訟の違憲判決は、昨年4月の福岡地裁に続くもので、高裁レベルでは初めて。

 判決は、慰謝料を求めた損害賠償について「原告らの法的利益が侵害されたとはいえない」として、訴えを退けた昨年5月の1審・大阪地裁判決を支持、原告側の控訴を棄却した。勝訴した国や小泉首相側は上告できないため、原告が上告しなければ判決は確定する。

賠償が否定されたことで、首相サイドの違憲判断に異を唱える道が司法プロセス上絶たれた。
だがこの訴訟の主眼は参拝の違憲性そのものであって、賠償は名目的にすぎない。
訴えの利益はむしろ違憲判決を得たことであって、それが確定することでなお重きを増す。

訴えの本質を見るのであれば、上告は認められてしかるべきで、そうでなければ損害賠償一点に絞るだけで、違憲判断に触れるべきではないのではないか。少なくとも『ねじれ』を生まない配慮は必要ではないか。

刑事と民事のねじれでも同様。

山香町の夫妻死傷民事訴訟 中国人元留学生らの殺意認定、賠償命令/大分地裁 - 読売新聞
・新庄・明倫中マット死訴訟 賠償命じる判決確定

 これらの事件では、刑事では認められなかった罪や反意が、民事で認定された。これらの判決は、メディアなどで事実上「逆転判決」として扱われる。
 このあたりの問題は『司法のしゃべりすぎ』(井上薫/新潮新書)に詳しい。できのよい本とは言えないが、このテーマで司法の矛盾を指摘する類書は少ない。もっと関心を持たれてよいテーマだと思う。