野田バッシング

 思えば、先の衆院選で惜敗していた方が、まだよかったんじゃないか。
 小泉の来年退陣は当確。郵政という踏み絵を踏まされることもなく、次の選挙で復活するシナリオも十分描ける。もっとも、だからこその支部解散、お家お取り潰し騒ぎなんだろうけれども。
 一時が万事。郵政の一点で鬼となった小泉は、裏切った身中の虫を根絶やしに追い込もうとし、その目論見は達成されつつある。いわゆる「造反組」は、大した覚悟もないまま数の争いに乗じようとして失敗、思いがけず政治生命を賭する事態に追い込まれ、大半がのたうち回りながら議場を去り、あるいは白旗を掲げた。淡い「復活」への期待も、支部解散、除籍と足元をガタガタにされ、思うように動けない。これが進めば少なくとも次の選挙後に派手な謀反は起こせない。メディアが顔ぶれと品定めにうつつを抜かす間に、「ポスト小泉」への地ならしは着々と進んでいる。

 野田も小泉も、シンプルな形で方向性を示した。事実上「自民を捨てても構わない」とまで言い切る姿は、大衆の共感を呼んだ。ベクトルこそ正反対なものの、逆境を逆手に支持を得るという、同じ構図を描いた。結果、小泉は図に当たったと言うべき圧勝を得た。一方の野田についても、小選挙区という閉じたフィールドでは面目を施した。

 しかし、岐阜での正義が必ずしも永田町の正義にはならなかった。当選がゲームクリアではなかった。小泉自民を捨てるというスタンス(本人の言葉としては決してそのような発言はない。しかし一般にはそう映ったし、その点こそが野田の、少なくとも選挙戦での活路だった)で振る舞いつつ、土壇場で身を捨てるのは惜しいという未練を見せた。それが野田にとっての「今のところのすべて」になってしまった。


 野田の変節は、見えやすい。対して小泉の、たとえば答弁での不誠実な部分などは、言葉にしづらい。
 批判の矛先が野田に向けられるのは当然あってしかるべきものだと思うが、野田を吊るし上げたその先に何か見出せるかと言えば、たかが無所属議員の一人、あるいは議員辞職したところで、何が変わるわけでもない。反郵政民営化反小泉で生きる政治家であれば、討ち死にも受け入れられるだろうが、さほどウエイトを置かない単一案件にその政治生命をかけるのは、あまりにもバランスが悪い。そういう判断も当然ありうる。野田バッシングに対して、野田バッシングに限らずだけれど、不健康な印象を拭いきれないのは、そこに潜む「転んだ」ものを嘲る闇さを感じさせることだ。