『下流社会』を生み出すもの

 戦後型の成長原理とそれを前提とした社会システム、終身雇用などが崩れることで、特異な形での"階層化"が進んでいく。
 『希望格差社会』はかなり前に読んだが、『下流社会』は気になりながらまだ手をつけていない。内田樹さんのブログを読んで、ちょっと目を通したくなった。

(略)


ただ、三浦さんが指摘しており、私も危機感を抱いているのは、こうして構造的に発生している「下層民」たちの「やり過ごし」のために企画されている「サッカーワールドカップなど」のメディア誘導型のイベントが過度に「装置化・管理化」されている点である。
先般の総選挙も、そのあとの小泉首相靖国参拝もある種の「イベント」として功利的に活用されて、若年の「下」たちに強い牽引力を発揮したことは記憶に新しい。
三浦さんも「『下』は自民党とフジテレビが好き」であることを指摘している。
これは数字をお示ししよう。
対象世代は「団塊ジュニア世代」(1973??80年生まれ)。
「上」の自民党支持率は8.3%、民主党支持が16.7%、支持政党なしが75%。
「下」の自民党支持率は18.8%、民主党も同率、支持政党なしが60%。
はっきりと政治意識の階層差がこの世代には現れている。
つまり、階層が下になるほど資本主義的な、競争原理と市場原理、つまり社会的弱者である当の彼ら自身を排除と収奪の対象としている体制をより好むという倒錯が生じているのである。

 内田氏は『勝者の非情・弱者の瀰漫』というエントリで、総選挙での自民圧勝について、「弱者」をたたくシステムを「弱者」が受け入れた結果と指摘しており、本書の内容は氏の分析とバックボーンを共有するものだろう。


 公共投資にせよ社会保障にせよ、構造的に再分配システムの受益者たる人々、つまりは特殊な資産を持つ希有な富裕層を除けば大半の一般人がそれに当たるはずなのに、その位置にいながら再分配の否定し始めた、ということ。ここにどのような選択意思が働いているのか考えてみたい。


 「弱者」、「被害者」の存在と主張に辟易としている様子は、たとえばイラク人質事件の折の自己責任騒動などに象徴的に現れる。きわめてエモーショナルな次元で忌避感を、隠すことなく示す傾向は、かつてここまで露骨ではなかったように思う。

 このような意識の背景にあるのは「弱者」に対する、

広く分配されるはずの社会的リソースを「弱者」という位置付けに甘えて食い潰すやつら

、というメンタリティだ。

 本来その資源は弱者に注がれるべきものであったとしても、そのようなイマジネーションを働かせることなく局面的な状況判断のみに従って特定の弱者を糾弾する。非難する側の想像のなかには、抽象的な「弱者」、言い換えれば再分配の受け手たるマスとしての「市民」があるだけで、固有名詞としての「弱者」は想定されない。その「弱者」が自らの苦境を訴え、結果として社会的資源を消費することになることは、なおさら情緒的に受け入れがたい。


 不寛容のムードはメディアを通じることで一種の権威付けとなり、社会的風土として再生産される。もちろん資産家や、特殊な才能によって高い生産性を持つ層は、社会システムへの依存度が低く、この不寛容のルーチンから抜け出す。結果として、いわゆる「勝ち組」層と低所得の「不寛容な市民」層の分化が加速される。