他民族を「管理」する不幸

 フランスの暴動について書こうと思っていたが、刻々と事態が変化するのを追っかけながらエントリを上げるタイミングを計りあぐね、その間にそれっぽいブログでどんどん言及されていくのを見ているうちに、付け焼き刃のウンチクで移民問題を語るのがバカらしくなってしまい、あきらめることにした。
 といってこのまま放り出すのも悔しいので、ややメタな話として今回の暴動と仏の移民政策をどう咀嚼したものか、空想的にいじくってみる。調べた範囲での一次資料的なリンクは末尾に掲載する。


 基本的には「移民」と「同化政策」と「低所得の若年層」のコンビネーションで説明されるし、裏返せば現場にいない人間がこれらを抜きにして言及するのはちょっと困難。あとの部分は史実か脳内補完で埋めればほとんど実効的な反駁を受けることもないのだから、ある意味で御しやすいテーマなのかもしれない。国内の報道の大半がその域を出ないところをみると、極めて教科書的な展開をする事件となりうる可能性がある。移民の反乱、国家の失敗…収拾に手間取るあたりもメディア的にそそる要素として十分だ。


 低所得層の若者の暴動という点で、たとえば日本のニートの問題をどう見るか。
 就業機会をあらかじめ奪われた、あるいは機会としてあり得ても様々な条件が複合的にネックとなり実質的に機会を喪失するような移民と、就業機会そのものを忌避し、あるいはNPOなど支援団体のバックアップを活かせない選択的罷業者のニートを同列に論じることは、接点が全くないと断じるまでないにしても、相当乱暴な議論になる。少なくとも暴徒化して波及的に拡大するようなクラス・アクションに繋がる要素は乏しいだろう。


 では民族的コンフリクトとして、日本の場合、在日の点はどうか、となるとほとんど触れる記述が見当たらない。まあこの場合事情が違う、移民とは性格が異なるなど、いろいろ議論はあるだろうけれど、お互いの接点で何らかの論点を抱えている訳で、そのあたりにこそ民族的問題、つまりフランスでの移民問題、日本でいうところの在日問題のナイーブさ、デリケートさが表れていると思う。という風に考えれば、まず何を論じるか、空想的エスニシティ・モデルよりも隣人を見よ、という自戒的な結論になるし、仏の移民問題を軽々に語ることを逡巡させる。


 他民族との接点は、往々にして他民族を管理することに繋がる。国家つまり主たる民族が、必ずしも抑圧を望んでいるわけではないにも関わらず、構図として支配と管理が生まれる。この葛藤を、自らのものとしてどう処理するか、克服することがいかに困難かを想像する能力あるいは幅があるとすれば、今回の騒動を見る目も違ってくるのではないかと思う、個人的には。だから、少なくとも今の自分としては、フランスの失敗、と嗤う気持ちにはなれない。


 今回の暴動は、移民政策や同化政策で培われた土壌に、彼らを触発しやすい些細なきっかけで火がついたようなもので、基本的に暴動そのものにメッセージ性や政治性はない。騒動が広がることで、そこに原因や意味性を見出そうとする行為が、暴動のメカニズムを見ることなく、舞台となった移民たちのありようで語られるだけにとどまるのなら、問題解決のベクトルが現実の当局の対応と乖離していくばかりだろう。


(一部追記)

欧州は移民と折り合えるか