取材プロセスの「可視化」

JR会見での暴言問題で、記者の複雑な心境が語られている。

T記者名暴露:新時代象徴なら貧しすぎる
 「記者会見はもっと抑制的にできなかったのか」との声があちこちから聞こえる。ところが、取材現場で抑制的に振舞うのは至難である。新しい情報、新しいモノを手に入れるのは取りあえず良いことであり、手に入れる前にその質を延々と議論しても始まらない。この場合の取材対象・JR西日本のペースで管理された情報しか貰えなくて、そうですかと帰ってくる記者はいない。記者会見の裏側では分析チームが動いているに違いないから、色んな問題意識を持ち出して入手を早めたい。凄むくらいのことは私でもする。ただ、その時に社会正義は自分の側にあるとの思いが行動をおかしくする。

JR西 読売新聞の謝罪に思う
テレビで会見を見た人から抗議が寄せられ、新聞社が謝罪するという前例ができたことは、果たしてよかったのか。テレビ局は、会見での記者の質問を、「おいしい素材」として今後ますます重視する可能性がある。一方、記者は、テレビの記者も含めて、テレビカメラを意識した質問をせざるを得なくなるかもしれない。テレビが流した一場面を元に、記者が「モラルを逸脱」しているのかどうか判断されることになるならば、取材そのものが変質しかねない。誤った“判断”が頻発し、現場の記者が萎縮する…。そうした悪循環に陥らないか少々心配している。

これらの指摘は取材現場の視点として、行儀よくやっているだけでは本質に切り込めない、という経験的な意識にもとづく。
ネゴシエーションとはそういうものだろうし、当然そこに戦略性は生じる。
取材者の戸惑いは、そこがオープンになることで、その点密室での取り調べの問題と酷似している。
【資料】

  • 取調べの可視化(録画・録音)の実現に向けて-日弁連(PDF)

http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/shihokai/kadai/data/torishirabe_kashika.pdf

  • 「国民の期待に応える刑事司法の在り方」について-法務省(PDF)

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai26/pdfs/26haihu2.pdf

裁判員制度の導入と並行して、捜査を密室のものにしない、聴取のプロセスをビデオ収録するなどして可視的なものにするという動きがある。これに対し聴取がやりづらくなる、被疑者の態度に影響が出るなどの意見がある。
とりあえず、クロに近いグレーである状況にあって、追及のプロセスで発生する不利益は被疑者側に負わせるべきではないだろう。そのスタンスから議論を詰めていかなければ、えん罪と同じ構図を排除できない。
記者の態度についてもそういうことなのではないか。隠ぺいさせない、という思いを実現するために知恵を絞るべきは取材社側であって、恫喝をもって当たるべきでない。
記者クラブ夜討ち朝駆けなど、報道の現場は、いわば密室的な環境にあるケースが多い。これに限らず今回の会見のように、フレームの外では衆目にさらせないようなやり取りがある。事情によっては取材プロセスがオープンにできないことがあるのはもちろん理解できるが、その手続きはフェアであるべきだ。
ブログなどでの記者の発言を見ていると、良心的にあろうとする部分と、問題を追及する部分との狭間で態度を明確にできないでいるようだ。その"揺らぎ"を共有して、経験的に蓄積していくことはできないだろうか。

今どき就活事情

「Jun, 今の学生が一番はじめにやる就職活動ってなんだかしってるか?」私はありきたりの回答しかできなかったが、答えは”ネット上の自分の記録を消す”だそうだ。自分が直接手の加えられないものは、わざわざ管理者に頼み込んだりもするという。やばめの写真だとか思想的に色濃い発言など、悪ふざけのつもりでやったものでも残ってしまったりする。また自分の知らない所で学校でのレポート経由だとかでネットに掲載されてしまったり等と。。。しかもそれが永久に残る。採用者の方も心得たもので、ネットでどんな人物なのか検索してFilteringの材料とするというのだ。

なるほど。

民意と世論

民意-国民の意思。人民の意思。
世論-世間の大多数の人の意見。世上で行われる議論。

微妙だが、表出するか否かに関わらない意思を民意、公論として発現する方が世論と見るのが妥当か。
ネットという俎上では動的なものがウエイトを持つ。もちろんサイレントマジョリティに大しても斟酌はあるけれど、基本的にはアクティブな発現を軸にドライブしていく。
実はこれまでのメディアでも実質は同じなんだけれど、何となく前提として声なき声を汲んでいるような前提があった。ネットにはドライに割り切るプラグマティズムがある。