「害」以外の側面が見え始めた外来種

アイガモ農法、環境省が外国産水草の使用「ダメ」
 アイガモ農法は、雑草や害虫の除去にアイガモやアヒルを活用する稲作。水生シダの一種のアゾラは、窒素分が豊富で肥料になるため、アイガモと組み合わせる農法が広がっている。アゾラは、カモのエサになり、水田をびっしり覆って雑草の生育を抑制する効果もある。日本にも在来のアゾラがあるが、夏の高温に弱く、アイガモ農法には使えない。かつて雑草として駆除され、絶滅危惧(きぐ)種となっている。外国産のアゾラが全国に広まるにつれ、こうした在来種がさらに衰退すると懸念されている。

ブラックバスなど、シンボリックな意味で害の側面が見えやすい種が規制の対象となることについては、ほとんど科学的な根拠を問われることなく一般の理解を得る。一方でこうした見えない部分で外来種に依存している産業があるという事実は、知られていないし、きちんと議論されているようにも見受けられない。

以下のような事例もある。

外来ハチ規制? 対策迫られるトマト産地
 生態系を乱す恐れがある外来動植物の輸入や飼育を規制する「外来生物法」が1日、施行された。温室トマトの授粉に利用される欧州原産のセイヨウオオマルハナバチは、現在は規制対象ではないが、今後対象に加えることが検討されている。このため、全国一のトマトの産地・熊本では、県が在来種のハチの導入コスト調査に乗り出すなど、対応に頭を痛めている。
(略)
  国立環境研究所(茨城県つくば市)によると、海外で商品化されたセイヨウオオマルハナバチが輸入されたのは91年。今では各地に広まり、五箇公一・総合研究官は「全国の温室トマト生産者の8割が使っているとも言われる」。

産業的にメリットがある種を規制から除外せよ、というのではない。
ブラックバスマングースカミツキガメなどはプレデター、つまり捕食動物として既存種、希少種に致命的なインパクトを与える。
外来生物法が語られる場合、クローズアップされるのは、たいていこのプレデターに関する話で、種の交雑に関する部分についてはほとんど触れられていないということは留意しておく必要がある。
今回の規制は種の保存のためのひとつの有効なアプローチであることは確かだが、逆に言えば外来種を排除すれば在来種は保たれるという印象を与えかねない。
以前放流の問題について触れたが、外来種だとか在来種だとかいう区分けだけではなく、人為的に生物を移動させ移植することが図らずも純粋種の衰退に拍車をかけているということを環境省はきちんとケアすべきだ。
安易な放流活動やビオトープなど、「生物環境を大切にする、自然に親しむ」というイメージが一人歩きすることの危うさを、科学と教育の現場が検証していかない限り、本質的な種の保護には決して至らない。

ちなみにブラックバスについて、有害であることの科学的根拠が乏しくスケープゴートだ、という意見がある。
もちろん今回の法ができるうえで重要な役割を担っていることは間違いない。

ただデータとして害魚であることが立証されることと、証明されない限り規制すべきではないということは等値で語るべきではないだろう。
科学的根拠を示さないまま規制することは、フェアではないという側面はあるが、対応として妥当であることを否定するものではない。

希少種の減少について、たとえば護岸工事とか水質の問題とかいろいろな要素が考えられる。
ただそれぞれの要素で具体的に排除できる部分となると、限られてくる。
政策的な選択肢として規制によるメリットと、不利益を受ける部分を量るのは当然だ。
護岸が問題だとして、ではどうするのか。
葦原に戻す?将来の護岸を規制する?
もちろんあり得ないわけではないが、種の保存という目的で判断する限り、ほとんど現実的効果を期待できない選択だ。
水質の問題も、広く環境の問題であって、希少種を守るために、ということを主目的に動く話ではない。

その点、バスを排除することは喫緊の被害、つまり捕食を抑えることであり、ダイレクトに効果につながる。
バスの食害の量がどれほど致命的か、ということではなく、具体的に見えやすい効果があるということが重要だ。
バスフィッシング業界にデメリットはあるが、産業的に若いという部分もあるし、何と言ってもレジャーであることは従来型の内水面漁業者を犠牲にすることに比べれば遥かに理解を得やすい。
まあこういった下心は不健全だとしても、希少種と天秤にかけて排除すべき対象として、バスは最右翼となる。

このあたり、タバコをめぐる議論を考えてもらえばわかりやすいかもしれない。
つまりは健康を侵す危険としてのウエイトがどうこう、ということではなく、まず削ったことで他にデメリットがあるわけじゃない対象として、タバコがピックアップされる。
排除されるべきリスクは嗜好に関するものであって、生得的でないもの、ということだ。